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ロングストリート軍の最後の部隊であるリチャード・H・アンダーソン少将の師団が、17マイル (27 km)を行軍して、8月30日午前3時に戦場に到着した。彼らは疲れており地域に不案内だったのでグラブトンの東の尾根で停止した。夜明けにその場所が孤立しており、敵軍とも近すぎることを認識して、後退した。ポープの南軍は撤退しつつあるという考えは、前夜のフッド隊の後退に続いて起こったこの動きで補強された。午前8時、ポープ本部の作戦会議で、ポープの部下達はその指揮官に慎重に行動するよう説得を試みた。午前10時頃にストーニーリッジの南軍前線を探ると、ジャクソン軍は依然として強固な防御陣を布いていることが分かった。ジョン・F・レイノルズはターンパイクの南の南軍勢力は大きいと報告した。フィッツ・ジョン・ポーターは同じような情報を持ってその後に到着した。しかし、ハインツェルマンとマクドウェルはそれぞれの偵察を行い、ジャクソン軍の防御戦を見出すことが出来なかったので、ポープは最終的に撤退しつつある南軍に攻撃を掛ける決断をした[40]。 正午少し過ぎに、ポープはポーターの第5軍団に、ハッチとレイノルズによる支援を付けて、ターンパイクに沿って西に進軍する命令を発した。これと同時に、リケッツ、カーニーおよびフッカーは北軍の右翼を前進した。この2つの動きが撤退しつつある南軍を潰すだろうというものだった。しかし、南軍は撤退してはおらず、資産運用 には攻撃を待っていた。リーは依然としてロングストリート軍による反撃の機会を待っていた。ポープがこの日に攻撃してくるかどうか確信を抱いていなかったが、スティーブン・D・リー大佐の大砲18門をブローナー農園北東の高台に据えさせた。そこはジャクソン軍陣地の前の開けた戦場への砲撃に適した場所だった[41]。 ポーターの軍団は実際にはターンパイクを西に進める位置ではなく、グラブトン近くのターンパイク北の森にいた。その前面にあるジャクソン軍に対する攻撃のために、10,000名の部隊を配列するには約2時間を要した。目標は、そのときウィリアム・E・スターク准将が指揮するジャクソンの古い師団だった。北軍の攻撃を先導する師団はジョージ・W・モレル少将に代わったダニエル・バターフィールド准将に指揮され、ヘンリー・ウィークス大佐の旅団が左翼に、チャールズ・W・ロバーツ大佐の旅団が中央に置かれた。ハッチの師団が軍団の右翼に就いた。ジョージ・サイクス准将指揮下の正規兵2個旅団は予備隊とされた[42]。 北軍は大変な任務に直面していた。バターフィールドの師団は、未亡人ルシンダ・ドーガンが所有する600ヤード (550 m)の開けた牧草地を横切らねばならず、最後の150ヤード (140 m)は険しい上り坂であり、未完成の鉄道の陰の強固な陣地を攻撃しなければならなかった。ハッチの師団は300ヤード (270 m)だけだったが、南軍を正面から叩くためには銃火の中を複雑な右回りの行軍を行う必要があった。かれらはスティーブン・D・リーの砲兵隊から来る日経225 な砲火を浴び、続いて前線に並ぶ歩兵からの容赦のない一斉射撃を浴びた。それでも南軍の前線を突破し、第48バージニア歩兵連隊を崩壊させた。ストーンウォール旅団が前線を保つために突入し、その指揮官ベイラー大佐を含む大きな損失を出した。この戦闘の中で疑いもなく最も有名な出来事となったものは、ブラドリー・T・ジョンソン大佐とレロイ・オーガスタス・スタフォード大佐の旅団が激しく発砲したので、弾を使い果たし、大きな岩を第24ニューヨーク連隊に投げつける手段に訴えて損傷を与え、驚いたニューヨーク兵達はそれを投げ返した。外国為替証拠金取引 の疲れ切った防御陣を支援するため、ロングストリートの砲兵隊が戦闘に分け入ろうとした北軍増援隊に砲弾を浴びせ、部隊をバラバラにした[43]。 ポーター軍は相当数のFX を受けていたが、サイクスの予備師団の投入を行わず、その攻撃を止め、実質的に先導役をしていた旅団が支援もないままに脱出するに任せた。この撤退はさらに損失を生む行動になった。スタークの旅団の南軍兵は喜んで追撃に掛かったが、グラブトン・サドリー道路に控えていた北軍予備隊に撃退された。結局ジャクソン軍は消耗が激しく反撃できず、ポーター軍はターンパイクの北で立ち直る場を得た。しかし、ポーター軍の状態を心配したアービン・マクドウェルはレイノルズの師団にチンリッジの持ち場を離れポーターの支援に回るよう命じた。この判断はこの日の最悪の戦術的決断だったと言っても良い。ターンパイクの南にいたわずか2,200名の北軍兵がその10倍の南軍と向き合うことになった[44]。 リーとロングストリートは、このときこそ長い間待っていた攻撃の機会ということで合意し、目標を第一次ブルランの戦いで重要な地点となったヘンリー・ハウス・ヒルに定めた。ここを占領できれば北軍の撤退路となる可能性がある所を支配できた。ロングストリート軍5師団25,000名は、北のブローナー農園から南のマナサスギャップ鉄道まで1.5マイル (2.4 km)近くにわたって伸びていた。目標の丘に到達するために、1.5ないし2マイル(2.4ないし3.2 km)の距離を、尾根、小川や深い森を抜けて進む必要があった。ロングストリートはこの地形に拡がる戦列をうまく連携を取らせながら進ませることは出来ないと分かっていたので、その師団指揮官達の指導力と独創性に任せることにせざるを得なかった。先導する師団は左翼のターンパイク近くにジョン・ベル・フッドのテキサス部隊がネイサン・ジョージ・エバンス准将のサウスカロライナ部隊に支援されて進んだ。フッドの右手にはケンパーとジョーンズの投資信託 が進んだ。アンダーソンの師団は予備隊とされた。攻撃の直前に、リーはジャクソンに信号を送った。「ロングストリート将軍が前進している。その左翼に気を付け守ってくれ[45]。」 ターンパイク南の北軍守備隊はわずか2個旅団しかおらず、ナサニエル・マクリーン大佐(シーゲルの第1軍団シェンクの師団)とガバヌーア・K・ウォーレン大佐(ポーターの第5軍団サイクスの師団)が指揮していた。マクリーンがチンリッジを守り、ウォーレンは約800ヤード (730 m)西のグラブトン近くにいた。南軍のフッド隊は午後4時頃に攻撃を始め、たちまちウォーレンの2個連隊、第5ニューヨーク連隊(デュリーのズアーブ)と第10ニューヨーク連隊(ナショナル・ズアーブ)を圧倒した。接触から10分間で第5ニューヨーク連隊500名のうちほぼ300名が撃たれ、そのうち120名は瀕死の重傷だった。これは南北戦争全体でも単一の戦闘で歩兵連隊の受けた最大の戦死数となった[46]。 ポープとマクドウェルは事態の危険性を認識し、その部隊にヘンリー・ハウス・ヒルの占領を命令したが、それが起こるまでに、マクリーンの旅団が南軍猛攻の唯一の標的にされた。合計1,200名のオハイオの4個連隊はチンリッジに西面して戦列を布いており、1個砲兵大隊が支援して、まずフッド隊、続いてシャンクス・エバンスの旅団(ケンパー師団)による2回の攻撃を撃退した。モンゴメリー・D・コース大佐の旅団(やはりケンパー師団)による3度目の攻撃が成功した。マクリーンの部隊兵は尾根の南の端から近付いてくる部隊を友軍と誤り、発砲を控えていた。その誤りに気付いたときに、至近距離での激しい銃火が10分間交わされたが、ルイジアナ砲兵大隊から砲撃が加わって北軍の戦列を崩壊させた。オハイオ旅団の損失率は33%にもなったが、これでポープが増援を送るための30分間を稼いだ[47]。 最初に到着した北軍の2個旅団はリケット師団からのものであり、ジーラス・B・タワー准将とロバート・スタイルズ大佐が指揮していた。タワーの旅団は3方から攻撃されて崩壊した。その砲兵大隊が捕獲され、タワーも重傷を負った。タワーに続いたスタイルズの旅団はケンパー師団から新たに到着した、マイカ・ジェンキンス准将とエッパ・ハントン大佐の指揮する2個旅団の餌食になった。この激しい戦闘の間に、第12マサチューセッツ連隊の指揮官フレッチャー・ウェブスター大佐(政治家ダニエル・ウェブスターの息子)が致命傷を負った。シーゲルの第1軍団からジョン・コルテス大佐とヴラジミエシュ・クルチザノーフスキー大佐が指揮する2個旅団がさらに投入されたが、その前の部隊と比べても甚だしい成功は得られなかった。南軍ジョーンズ師団の先導隊、ジョージ・T・アンダーソン大佐とヘンリー・L・ベニング大佐の旅団は、午後6時までにチンリッジにおける北軍の抵抗を追い払ってしまった。しかし、南軍は攻撃に成功しても、兵士(フッドとケンパーの師団は大きな損失を被り少なくとも一時的にそれ以上の攻撃行動ができなかった)においても時間の面でも大きな損失があった。ヘンリー・ハウス・ヒルまではまだ数百ヤード向こうにあり、昼の光はあと1時間ぐらいの余裕しかなかった[48